30 settembre, 2006

立ち止まってみました

9月27日に父方の祖父の妹のご主人が亡くなりました。
94歳、正に大往生でした。

僕の父が生前から大変お世話になり、また父が入院しているとき
もご高齢であったにも関わらず、
頻繁にお見舞いに来ていただいていました。

28日に通夜、29日に本葬・初七日が行われましたので、
最後のお別れに行きました。

29日の初七日が終わり間際のお坊さんの説法の中で、
仏教は、諸行無常を大前提としているみたいなことを
話されていました。
ウチの父方は浄土真宗本願寺派ですから親鸞聖人の教えです。
日ごろこういった機会にはあまり遭遇することがないので、
僕もじっとその教えを拝聴していました。

諸行無常とは、文字通り全ての事物には始まりがあり、
必ず終わりがあるということです。
“あなた”は必ず死ぬということです。

そんなことは、一々お坊さんに言われなくても分かっている
けれども、日ごろそれを意識するシーンは少ないです。
お葬式の場で人様の死に接する時に人が必ず死ぬことを
改めて思うんですよね。

で、このお坊さんは諸行無常を前提として、
命が目的ではなく手段であることを説かれていました。
僕も正にそうだと思っています。

僕が常々思っていることは、
如何に長く生きるかではなく如何に生きるかということです。
命に執着せずに与えられた命を如何に使うかです。
そう言うと命を粗末に扱うなという声が左側から
聞こえてきそうですが、そんなことは言っていなくて、
生まれてきてその折々に目的を掲げなさいということです。
一時期のモラトリアムも人生80年と考えれば、有益である
と思います。
ただし、人生大きな括りの中では見失ってはいけないと思います。

いまわの瞬間、自分の人生を振り返る時間を与えられたら、
有意義だったと思いたいです。

この二日間はばたばたとあわただしかったのですが、
おじいさんは、僕に人生の微修正する機会を与えてくれました。

1 commento:

ひであき ha detto...

>beyanさん
ホンマに疲れました(笑
まさか午前4時過ぎまでになるとは!

あの続きは・・・
他の誰かとやってください!!

ありがとうございます。
本当に大往生でした。
大叔父の人生は、
有意義なものだったと思います。