06 settembre, 2011

ふたつの大災害に思うこと

台風一過、ホンマに容赦ありません。

全国の死者は37人、行方不明は55人だそうで、
東日本大震災の被害状況
(1万5千人を超える死者、5千人近くの行方不明者)
が余りにも大きすぎて我々も見過ごし勝ちですが、
ひとつの台風での被害としてはホンマに大きく、
被害に遭われた方々へは、本当に御見舞いを申し上げます。

この週末は僕も全ての予定がキャンセルで、
自宅で過ごしていたのですが、ニュースを見て、
和歌山県や奈良県で亡くなられた方の報道を見て、
この方々も東日本大震災の時に義捐金や物資支援、
更にはボランティアなどで、被災地の復興に貢献された方も
いらっしゃったんじゃないだろうか、と思ったりして、
心を痛めておりました。

自然災害で人が亡くなるというのは、あるいは本来自然なもので、
当然悲しくはあるけれども、
(人が死ぬことは自然の摂理であることも踏まえ)
乗り越えていかなければならないものです。

ただ、そこに人が、正に人為的に付加した物語があるが故に、
その死がより悲劇的に写されることがあります。
今回、僕が感じたものが正にそれであり、
僕はそれを自分で勝手に想像し、思い込み、感情移入したわけです。

東日本大震災で被災された方々に思いを寄せた方々が、
まさか台風12号の被害に遭われ、亡くなられた方までいらっしやるとは、と。

このニュースは、1週間もすれば我々の記憶の中では薄らいでいくかもしれません。
また、今現在台風12号で被災された地域への義捐金の動きは、
僕の知る限りありません。

しかし、被災された地域では、復旧、復興がはじまります。
僕は、とりあえず義捐金窓口が無いか調べてみようと思います。
決して多くない収入の中で、引き続き東日本大震災への義捐金も確保しつつ、
台風12号のことまでも・・・。
自然は本当に容赦ないなぁ。

それでも、生きていく

どこかのドラマのタイトルにあったと記憶していますが、

楽ではない人生、何のために人は生きているのか・・・
など考えている間に、あっという間に60歳になり、そして死んでいく。

もしかしたら災害で明日死んでしまうかもしれない、
暴漢に刺されて死んでしまうかもしれない。

与えられた寿命の中で、僅か何十年の時間の中で、
いまわの瞬間に、
「なかなか楽しい人生だった。」
と言える人生を歩む。

この瞬間のために生きる。
正にこれこそ人生最大のやりがいなのかもしれません。

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