18 marzo, 2011

現実と向き合うということ

なぜ、我々があれこれ自粛するのがよろしくないと僕が思っているのかを
改めて整理というか、考えてみた。

昔、テレビだったか新聞だったか雑誌だったか、はたまた漫画だったか・・・

読んでいてなるほどと思ったものがあった。

うろ覚えだが要旨に間違いは無いので紹介する。

ある病気を患う患者さんがいた。
その方を熱心に診察する新米の医者がいた。
しかし、その患者さんは残念ながら亡くなってしまいました。
その新米の医師は自分を責め、泣き自暴自棄になってしまい、
日々の業務にも支障がでるようになりました。
その亡くなられた患者の両親がその新米の医師に対して、
自分の子供が亡くなったことに対して泣いてくれるのは嬉しいが、
そんなことよりもこれを経験として良い医師に成長して欲しい
とおっしゃいました。

このことと今回の震災についての自分たちの振る舞いとを重ねて考えるには
ずれている部分もあるかもしれないが、

患者を治すことが出来るはずの医師が担当患者が亡くなったからといって、
自分を責めてこれから来るであろう患者のために知識を養い技術を磨くのを
怠ることはプロとして失格であるという部分です。

患者のために泣いてあげる医師が良い医師なのか、
それとも感情を殺して冷静に対応するのが良い医師なのか、

両方できればパーフェクトですが、感情が入ることによって判断を誤る可能性が
あることを考えれば泣いてくれる医師よりも客観的に患者を診ることのできる医師が
良い医師であることは間違いないでしょう。

どうしてもこの話と今の被災地と僕達の関係が重なってしまうので、
当てはめて考えると

今救助・援助が必要な「患者」が被災地及びそこに暮らす人々です。
そして救助できる、援助できる「医師」の立場に当てはまるのが僕達です。

であるならば、「医師」は被災地があんな状態だからといって同情して泣き、
我々はこんな贅沢をしてはいけないとあらゆる活動を中止・自粛するべきなのか?
と思うわけです。
“泣いてあげる”ことによって自身の感情はみたされるかもしれないが、
患者は一向に回復しないんです。

患者(被災者)のために泣く(中止・自粛)よりも患者のために治療(救助・援助)するのが
医師の務めでしょう。

患者のために泣く医師は良い医師ではないと思います。
被災地が大変なんだからイベントを中止・自粛します。
という人達は自分たちが良い人と思われたいと思っているだけだと思います。

それは根本的な解決(復興)には何も結びつかないし、

僕はそうやってあれこれ自粛する人達に教えて欲しいのですが、

じゃあ、どの段階であなた方はその自粛を解くのですか?

行方不明者が全員見つかってから?
行方不明者の捜索が打ち切られてから?
現地から自衛隊の方々が任務終了で撤収してから?
避難している人達が仮設住宅に移ってから?

どのタイミングにします?

自粛した理由があれば、自粛を解く理由もあるはずです。
その自粛を解く時にはどうか合理的な理由を教えてください。
その理由に納得できれば、罵詈雑言吐いた僕は謝らなければなりませんからね。

阪神淡路大震災の被災地は表向き復興していますが、
自粛をする方々の論理で言えば、阪神淡路大震災で大きな被害を被った方々で
今も苦しんでいる人達はいますよ。
でも、前を向いて生きるしかない。
そう思って日々暮らしている(と思う)。

被災地、被災者は今回の被害と向き合ってこの先何十年と生きていかねばなりません。
僕はそれを思えばこそどうすれば被災地にお金、物資が届くかということを考えます。

泣いて(中止・自粛して)お金がうまれ被災地に届くのならば、
エエ年こいてバスタオルが何枚も必要なほど泣くかもしれません。
しかし、そうではないでしょう。

断じて申し上げるが、

「あなたのその自粛は、自己満足のためだけの自粛です。」

2 commenti:

だい ha detto...

「あなたのその自粛は、自己満足のためだけの自粛です。」名言です!まさにその通りだと思います。

僕はとりあえず、地震から一週間と決めていたので、今日から、くだらんBlog再開ですw

ひであき ha detto...

>だいさん、まいどです。

日本人は自分も含めて極端に
走り勝ちな傾向にあるので、
自粛するなとなると何でもやりそうでそれはそれで恐いです。
要はバランスなんですよね。

喪に服す?期間、
ケジメとして良いと思います。
また、blogはくだらなければくだらないほど、
良いと思っていますw