31 luglio, 2012

柔道とJUDO

オリンピック、楽しく観てます。
平和の祭典ということらしいので、
政治的な観点とか、あの国嫌いとか言わずに
観戦しようと心がけるのですが、

色々ある競技の中でも柔道は年々ひどくなっているように見えます。

ルール変更で1点とか10点とか100点とか、
ちょっと訳が分からなくなりました。
それと、選手が崩れた胴着をきちんと直そうとしない。
だらしなく乱れたままで競技を続けています。
そして、審判はそれを見ながら直せと言わない。
そんな状態で競技を続けるものだから、
相手を釣っても胴着だけが浮いて、体は持っていかれない
みたいなことが起こる。

担ぎ技でも、胴着だけが担がれて両足は畳についたまま。
みたいな感じです。

そして、極端に組み手を嫌がるため、素人とはいえ、日本人の
僕たちの知る柔道はオリンピックのそこには全くありませんでした。
前回の北京大会では、諸手狩りで一本を狙う選手が続出し、
日本人選手もその犠牲になり、これは柔道なのかレスリングなのか、
それともそのどちらでもない新たな競技なのか?
みたいなことが発生し、僕の中では完全に事件となっていました。
さすがに今大会では、技に入る最初から足を狙うタックルのような技は
反則で、一発退場となりまして、現にそれで負けた選手も既にいます。

日本人選手以外の選手同氏試合を観ていると、もう柔道ではないなと
思うような試合が数多く見られます。

「あぁ、これがJUDOなんやなぁ・・・。」

と思いました。

これは、柔道が世界中に広まったことの証であり、
日本の武道が世界で認知され、愛されているということの裏返し
だから、むしろ喜んでもよいのではないかとも思われますが、

そもそも柔“道”ですから、他の武道と同様に礼に始まり礼に終わる、
勝つだけが全てではないなど、人としてのあり方というか、
人間教育、人生とはみたいなところまで、

正に道を究めるための武道であったと認識しています。

それが、世界で広まり、スポーツとなり、世界大会を開催するまでの
競技となった。

そうなると、やはり本来のあるべき姿とは変わることはやむをえないのでしょう。

それでも、最低限の部分だけは押さえといて欲しいわなぁと思います。

畳に上がる時の礼はきちんと静止して、
頭を角度何度とは言わないからしっかり下げて欲しいですし、
道ですから、勝っても心を落ち着けて極端な喜び方はしないで欲しいし、
負けてもふて腐れずに最後の挨拶はきちんとして欲しいです。
そして、胴着は正しく着用して欲しいですし、帯はしっかり締めて欲しいです。

“キチン”ととか“正しく”とか“しっかり”などと、
基準がはっきりしない曖昧な言葉のオンパレードとなりましたが、
これをやることが礼に始まり礼に終わるを体現することになるんだと思っています。

これをテレビで観る事ができれば、楽しくオリンピックJUDOを観戦できると思います。

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