09 dicembre, 2011

芸術とは何か?

Damien Hirst(ダミアン・ハースト)氏

英国の現代美術家だそうです。
ひょんなことからこの方の作品を目にする機会があったのですが、
醜悪以外の何物でもないと僕は思いました。

で、wikiだの何だの見てみたら、なるほど毀誉褒貶の激しい方で、
そもそもこの人の作品といわれるものは芸術なのか?
とまで言われています。

その毀誉褒貶の原因となっている作品というのが、
死んだ動物をホルムアルデヒドで保存したもの、
腐敗した動物を展示したもの、
輪切りにしたり、縦に半分にした動物を展示したもの

など、これを醜悪と言わずして何を醜悪というのか
と思うほどのものです。

こういったものをつくる理由というか原因は、
誰も避けることのできない生死を考えるためだそうですが、
そんなもん、こんな作品を見ずとも誰しもが考えることであって、
言い訳臭くて、むしろ不愉快に思うくらいです。

これが芸術だから

とでも言ってもらった方が、まだマシであると思います。

と、僕がこう腐しても氏の作品にはとてつもなく大きな需要があるのです。

彼の作品はひとつ20億円とか、30億円という値が付くんだそうです。
こういう作品はサイズも大きいのですが、買った人はどこに飾るんでしょうね?


当然作品展をやれば大盛況で、当然イギリスを代表する芸術家なのだそうです。

芸術って何なんでしょうね?
人間の考えられる芸術、美は既に出尽くしていて、
今ある芸術はその残骸なんじゃないかと思ったりします。

それとも芸術は美しくなくても良いのでしょうか?
ダミアン・ハースト氏の個展を観に行く人は、何を求めて行くのでしょうか?

縦に切断された牛と子牛のホルマリン漬けに美しさを感じて観に行くのでしょうか?
それともただの興味本位なのでしょうか?

縦に切断した牛と子牛のホルマリン漬けがもし美しいというのなら
僕にも分かるように説明してくれる人おりませんでしょうか?

それとも縦に切断した牛と子牛のホルマリン漬けが美しいから
観に行くのではないのでしょうか?
縦に切断した牛と子牛のホルマリン漬けを別の観点からみるのであれば、
縦に切断した牛と子牛のホルマリン漬けに何を感じるために観に行くのでしょうか?

芸術は美しくある必要があるのでしょうか?
美しくなくても成立する芸術はあるのでしょうか?


僕はこの作品を知って真っ先に思い出したのが、
グラディエーターでした。
古代ローマ時代に奴隷同士、奴隷と猛獣を戦わせるあれです。

毎日が暇で仕方の無かった連中が暇つぶしに見物したのがこれだったと言われています。
古代ローマ滅亡の理由は諸説ありますが、
その何れの理由の根底にも人々の堕落があるのではないかと思います。

まぁ、これと現代を重ねるのは無茶苦茶かとは思いますが、
興味本位で、本当に生きていた動物をいわば見世物にすることは、
似ていないようで似ているのではないかと思います。
人間の思い上がりさえ感じます。

ブレーキを踏まなければいけないタイミングなど
その車のスペックや、走っている速度、積んでいる荷物の重さ、
更には交通状況などによって違うと思うのですが、

僕はダミアン・ハースト氏の作品を芸術ということについては、
とても肯定できず、他の芸術家に対して失礼ではないのかと思いました。

ただし、芸術とは何かと定義付けることもそれはそれで無粋であると思います。

6 commenti:

hamaco ha detto...

芸術を評価するのはいつの時代も芸術家ではありません。学問として芸術を教える人説く人の多くも芸術家ではありません。作品を作らない人が評価し、ましてや学校で生徒の評価までするという実態は非常に変だなと思い続けてます。

ひであき ha detto...

>hamacoさん、まいどです。

音楽の世界にもコンクールというものが
存在します。
僕は高校時代吹奏楽コンクールに出場しました。
嫌々です。
嫌な理由は音楽に1番も2番もないやろうということです。
例えばCDが何枚売れたとかで1番2番
が決まるのはそれは数字の上でのことですので
構いません。
ただ、コンクールではお偉い先生方が
学生の演奏を順位付けるのですが、
はっきり言ってもうこの学校とこの学校で
順位つけるのんなんか、意味ないやろ。
と思うくらいに上手い学校もありました。
しかし、生徒達はそれで良い順位を
獲得するために頑張ります。

ただ、ハースト氏の作品は道徳的に、また倫理的に人間が超えてはいけない一線を
超えてしまっていると思います。

野生の動物は野生にいるからこそ美しい、生物は生きているからこそ美しい。
評価するしないで言えば、ハースト氏の作品なるものはそのスタート地点にすら立っていないと僕は思っています。

hamacoさんがおっしゃる、作品をつくらない人が
芸術家の作品を評価することは
不思議な話だと思います。
「あんたに言われたないわ。」
ということですね。

だい ha detto...

倫理観が日本人と違うんですよ。あと「美しさ」の基準も。あと、現代美術には言い訳臭い「コンセプト」が必ず必要です。そのコンセプト重視の評価がリーマンショック以前の評価です。現在はまだ模索中でこれと言った流れは出てきてませんが…
まぁ、何が言いたいかと言うと、美しいだけが芸術ではないということです。社会を風刺する媒体にもなり、タブー挑戦する表現の場だったりします。時代と共に価値観が変わり、時代を反映するのが芸術だと僕は思います。

ダミアンの作品は90年代イギリスというかヨーロッパはグローバル化の絶頂期。一般人が理解出来ない、嫌悪感を抱くほどのクレイジーな作品はなんともあの時代の象徴といっても良いでしょう。

あと、評価については学問の面からの評価や商業の面からの評価、などさまざまな角度からの評価が必要なので、作家以外の評価は必ず必要です。作家が評価する作品など、一般の人が見ても何も面白くないと思います。

ひであき ha detto...

>だいさん、まいどです。
僕がダミアン・ハースト氏の作品を
見たとき、既にこれを芸術作品として
捉えていませんでした。
それよりも先に生命倫理的観点で見ました。
はっきり言ってこんなもんつくって良いのか?ということです。
“芸術”であれば何をしても良い、芸術という言葉が免罪符になっているように感じました。
食事でもない、研究でもなく、観賞のために死体に手を加えることの醜悪さには唖然とします。あまつさえそれで大金を手にするとは白人のというか、ハースト氏の生命に対する傲慢さに呆れて何も言えんといったところです。
生け花や動物園、はく製はどうなんだという議論は周りではあるかもしれませんが、そんなことを考えるヤツにはあんなもんつくられないと思います。
成長、進歩が無くなれば人は終わりだとは思いますが、タブーに挑戦することと生命への尊厳を怠ることは同義ではないと思うんですよね。それならば“缶詰の中に糞”を「芸術だ!」と言って発表する方が、笑えるだけまだマシだと思います。

だい ha detto...

生命への「尊厳」というモノを持ち合わせてないから出来るんじゃないですか?
アングロサクソンの思考の根底には日本人が理解出来ないドス黒い人外の部分があると考えた方が良いと思います。わかりやすい例がインディアンを根絶やしに虐殺した歴史をフロンティアスピリットだ!などと美化して後世に言い伝える民族ですから。

ただ、イギリス人やアメリカ人の皆が皆そういうのではないですが…(苦笑)

ひであき ha detto...

>だいさん、まいどです。

だいさん、hamacoさん、
芸術に深く関わっておられる方々にコメントをいただけて、とても嬉しいです。

僕もそうだと思います。
敢えて書かなかったんですが、アメリカンインディアンの件しかり、アフリカの植民地の件しかり、スペイン宣教師バルベルデがインカ皇帝アタワルパを火あぶりにした件、日本人に対して「黄色い猿」と認識していたアメリカ人の件しかり、白人の連中の白人以外の人間を含む動物に対する偏見は今尚残っていると思っています。法律などで規制しなければ自然と現われる元来持っている感情なんでしょう。

もちろん全部が全部そう思っているとまでは思っていませんがw
パリ講和会議で人種差別撤廃を提案した日本はすごいと思います。
少し本題からはずれてしまいました。